■知っておきたい名刹二十四
名  称
概      要

永平寺

(えいへいじ)
※曹洞宗の
公式ホームページです

福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の大本山。
1244年(寛元2)に道元が越前の領主・波多野義重の所領に大仏寺を建てたのが始まりです。二年後(寛元4)に、大仏寺を永平寺と改称しました。中国に仏法が始めて伝来した後漢明帝の永平10年の年号にちなんだ命名といわれます。過去二度の火災にあったが、そのつど復興されました。 現在は、七堂伽藍がすべて備わり、つねに二百人を越える雲水が修行する日本一の禅道場です。一般の参禅者のための設備も整っています。寺宝には、道元の筆による普勧坐禅儀・普勧坐禅儀撰述記、孤雲懐裝筆の正法眼蔵仏性などがあります。

円覚寺

(えんがくじ)

鎌倉市山の内にある臨済宗円覚寺派の本山。
北条時宗が、1282年(弘安5)に、元冦の犠牲となった敵と味方の軍兵の霊を慰めるために、南宋から仏光国師(無学祖元)を迎え、開山として建立しました。工事中に土の中から「円覚経」を納めた石の箱が掘り出されたため、この経典の名を寺号にしました。また、開山落慶の日に白い鹿が群れをなして集まり、随喜して説法を聴いたという瑞事から「瑞鹿山」という山号がついたといいます。 寺の北西にある舎利殿は1285年(弘安8)に建てられた三間三面重層入母屋造りの代表的な唐様建築で、国宝に指定されています。境内には、一六の庵・塔頭があり、門外にも三か寺の塔頭があります。「縁切り寺」で有名な東慶寺もその一つ。境内には居士林という一般の参禅者のための道場もあります。

延暦寺

(えんりゃくじ)

滋賀県大津市坂本本町にある天台宗の総本山。
785年(延暦4)に伝教大師最澄が比叡山に草庵を結んだのが始まりで、その後お堂を建てて自作の薬師如来を安置したのが一乗止観院(根本中堂)です。823年(弘仁14)に延暦寺の勅号を賜りました。966年(康保3)に良源が天台座首となるや、全山の伽藍を整えて「宗徒三千人」といわれる全盛時代をつくりましたが、それ以後、三井の園城寺と対立して僧兵が争い、横暴をきわめました。1571年(元亀2)には織田信長によって全山を焼かれました。1584年(天正12)豊臣秀吉が再興を命じ、徳川家光にいたって根本中堂が再建されました。 寺宝には、最澄の筆になる将来目録・羯慶金剛目録・天台法華宗分縁起・六祖慧能伝や、入唐牒・山門再興文書などが多くあります。

久遠寺

(くおんじ)

山梨県南巨摩郡身延町のある日蓮宗の総本山。
日蓮が佐渡への流罪を許されてのち、土地の豪族に迎えられて晩年を過ごしたところです。当初西谷にかまえていた草庵が手狭になり、お堂を領主・実長が建てて奉納し、身延山として1281年(弘安4)に開創しました。ここで日蓮は大半の遺文を書き、教えを広め、弟子の養成につくしました。1282年(弘安5)、日蓮が池上で寂したあと、遺骨をこの地に納め、遺言によって六老僧が交替で守りました。のち、山主を決めることになり、日向が第二世となった。1474年(文明6)、現地に移り、武田氏の保護を受けて官寺となりました。その後は、徳川氏の外護もあっておおいに栄えました。 明治8年に全焼したが、今では旧観に復しています。

建長寺

(けんちょうじ)

鎌倉市山の内にある臨済宗建長寺派の本山。
北条時頼が、宋の僧・蘭渓道隆に帰依し、1253年(建長5)に建立しました。中国五山の杭州・径山興聖万福寺を模したものといいます。鎌倉五山の第一とされ、中国風の総合学問所でもありました。室町時代になって荒廃しましたが、北条・徳川両氏の保護を受け、数度の火災があったにもかかわらずよく復興しています。 現在の建物は、山門、本堂(仏殿)、唐門、西来中門、昭堂(礼堂)、開山堂、仮方丈、禅堂などがあり、山門は1751年(宝暦元)の建造です。 寺宝に、開山大覚禅師像、十六羅漢像(伝明兆筆)、釈迦三尊像(伝張恩恭筆)、梵鐘などの国宝があります。

興福寺

(こうふくじ)

奈良市登大路町にある法相宗の本山。
藤原鎌足が私邸として草創したが果たさずに没したため、室鏡女王が建立した山階寺が起源。のち、飛鳥の地に移して厰坂寺といったが、平城京の建設とともに710年(和銅3)藤原不比等が今の地に造営して興福寺と改め、それより、藤原氏の氏寺として栄えました。 現存する建物のうち、三重塔と北円堂は鎌倉中期、東金堂と五重塔は室町初期に再建されたもので国宝です。仏像・仏画・古記録も多く、なかでも乾漆八部衆立像と十大弟子立像(天平仏)、運慶作の木像世親・無着菩薩立像、木造弥勒仏坐像、康慶作の乾漆法相六祖坐像をはじめ銅造仏頭・竜灯鬼・天灯鬼などの国宝の仏像は広く知られ、親しまれています。

金剛峰寺

(こんごうぶじ)

和歌山県伊都郡高野町にある高野山真言宗の総本山。
弘法大師空海が816年(弘仁8)に高野山を開き、その後、寺塔を建立したのが始まりです。もとは高野山にある多くの寺院を総称して金剛峰寺といいましたが、明治以後は本坊のみを金剛峰寺といいます。明治5年までは一帯は女人禁制でした。弘法大師が入定している聖地として、平安末期から宗派を超えてこの山に納骨する風習が生まれ、おびただしい墓石群がつくられています。 寺宝は現在、霊宝館に保存されているが、密教芸術の巨大な宝庫です。

四天王寺

(してんのうじ)

大阪市天王寺区にある和宗の寺。
聖徳太子が物部氏との闘いにのぞんで、持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王像をつくって祈願したところ勝利したため、これをまつるために587年(用明2)に建立した日本最初の官寺です。当時、境内には貧窮者や病人を救済するための悲田院・施薬院などが設置され、社会福祉事業を行ったことで有名です。 伽藍の配置は「四天王寺方式」といい、南大門・中門・五重塔・金堂・講堂が北に向かって一直線に並びます。西門の石鳥居をはじめ千手観音・二天像などの彫刻、扇面法華経開子御手印縁起などの絵画、銅壺・刀剣など寺宝が多くあります。

新勝寺

(しんしょうじ)

千葉県成田市にある真言宗智山派の大本山。
「成田不動」とよばれ、交通安全の祈願のために、全国から参詣する人が多いことで有名です。 平将門が東国に乱を起こしたとき、広沢遍照寺の寛朝が勅を受けて賊の降伏を祈り、高雄山神護寺の不動堂の本尊を奉じて、関東におもむきました。下総公津原で密教を修したところ、無事に東国を平定することができました。このことから、その地に鎮護のために伽藍を建てて像を安置し、神護寺と王師新勝寺にちなんで、神護新勝寺の号を賜ったといわれていいます。江戸時代には諸侯の外護があり、門前町が発達しました。最近建立された五重塔はみごとです。

善光寺

(ぜんこうじ)

長野県長野市にある寺で「信濃の善光寺さま」とよばれて親しまれています。宗派に属さない単立法人です。
本尊は「一光三尊」といい、一つの舟形後背の中に阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊があります。インドから中国・百済を経て552年(欽明13)にわが国に渡来したと伝えられているもので、602年(推古10)に本多善光(若麻績東人)が難波からこの地へ移したといいます。古くから、宗派を越えて、阿弥陀信仰の重要な霊場として尊崇されています。 とくに瑠璃壇の下の暗い戒壇をめぐる「戒壇めぐり」は有名です。心の正しくない人が、この戒壇めぐりをすると、その姿が犬になるなどといわれています。本堂は江戸時代の代表的な建築であり、礼堂・外陣・内陣・内々陣をもつ大伽藍がそびえています。

浅草寺

(せんそうじ)

東京都台東区浅草にある聖観音宗の総本山。
浅草観音の名で有名ですが、もと天台宗の別格本山でした。 推古天皇のとき隅田川から出た観音像をまつったのが始まりと伝えられます。平将門の乱で焼失しましたが、文治年間(1185〜1190)に源頼朝が平氏追討の祈願をして成就した報賽として田園36町歩を寄進したため、大寺院となりました。その後も、たび重なる焼失、再建をくり返し、昭和20年の空襲でほとんど焼失しました。明治以後は境内の大半が公園にあてられ、庶民の憩いの場となっています。 現在は本堂・雷門・宝蔵門も再建されて、東京の名所となりました。境内の東北隅にある浅草神社が三社権現で、ここの五月の祭礼が三社祭です。

総持寺

(そうじじ)
※曹洞宗の
公式ホームページです

横浜市鶴見区にある曹洞宗の大本山。
かつては石川県にあったが、明治31年に焼失したため、今の地に移った。もとの場所は総持寺祖院と呼ばれています。 1321年(元亨元)に行基が建立したと伝えられる律宗の寺院「諸岳院」を、住持の定賢律師が瑩山紹瑾に帰依して寄進したものです。以来、瑩山を開山として総持寺と改めました。1322年(元亨2)に後醍醐天皇の勅により官寺となり、僧たちの賜紫出世の道場となりました。のち、1615年(元和元)徳川幕府が五山十刹に対し法度を出したときに、永平寺とならんで総持寺も大本山となりました。 今では、京浜地帯を見おろす鶴見の丘の上に大師堂・仏殿・香積台・紫雲台などの建物が建ち並び、雲水の専門修行道場としてばかりでなく、一般の人たちの参禅も盛んです。境内には、鶴見大学、鶴見女子高もあり、学園キャンパスの役割も担っています。

増上寺

(ぞうじょうじ)

東京都港区芝公園にある浄土宗の大本山。
正しくは三緑山広度院増上寺といいます。浄土宗の関東総本山、関東十八檀林の首位、歴代徳川家の菩提所、皇室有縁の寺として、首都屈指の名刹です。 寺の創建については、諸説がありますが、1393年(明徳4)に聖聡が、麹町紀尾井町にあった光明院を浄土宗に改めて開創したといわれます。1590年(天正18)、徳川家康は江戸入府と同時に増上寺に詣で、菩提寺としました。そのため、歴代将軍の墓所もおかれ、江戸幕府の興隆とともに栄え、幕府没落とともに勢力を失うという運命をたどりました。 昭和20年の戦火で、三門を残して、ほとんどの建物は焼失しました。寺内に残る重さ百五十キロの大梵鐘は東京一といわれ、寛永寺・浅草寺とならび江戸三鐘の一つとして有名です。近年、本堂や講堂が一新され、関東の浄土宗布教の中枢となりました。

知恩院

(ちおんいん)

京都市東山区林下町にある浄土宗の総本山。
正しくは華頂山大谷寺といい、別称、吉水禅房ともいいます。 法然が比叡山を下って草庵を建て、念仏道場としたのが始まりです。1211年(建暦元)遠流から帰ると荒れていたため、法然は慈円があっせんした南禅院(大谷禅房)に僧房を営み、翌年80歳で入寂しました。1234年(文暦元)勢観房源智が大谷遺跡の廃滅を嘆いて四条天皇に請い、その旧地に再び仏殿、影堂、総門等を建て、大谷寺と称しました。その後、火災、焼き打ちなどがあって荒廃しましたが、室町末期に再興し、徳川家康の外護を得て大伽藍を建立しました。1887年(明治20)に、この寺の門主を浄土宗の管長とするように定められました。 三門正面の軒裏に時雨の傘(忘れ傘)がみえます。左甚五郎のものといいます。本堂から集会堂への渡り廊下は妙音を発する鶯張りとして知られています。寺宝には、絹本著色二十五菩薩迎図、紙本法然上人絵伝四八巻など多数の国宝があります。

中宮寺

(ちゅうぐうじ)

奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺東院の東隣に位置する尼寺。
別称を斑鳩尼寺とか、法興寺ともいいます。 一説に621年(推古29)聖徳太子の母である穴穂部間人皇女のために、その冥福を祈って皇女の住んでいた中宮を寺としたものといいます。平安時代まで栄えていたが、後に衰退し、室町末期に再び興されて、江戸時代には比丘尼御所となりました。 天寿国曼茶羅繍帳、優美な姿と表情で人気の高い如意輪観音の木彫像などがあります。

東寺

(とうじ)

京都市南区九条にある真言宗東寺派の総本山。
正しくは教王護国寺といいます。羅城門(羅生門)の東側にあり、左寺・左大寺ともいわれました。 796年(延暦15)桓武天皇が創建しました。823年(弘仁14)に、それを弘法大師空海が嵯峨天皇より賜り、真言道場として他宗の僧が住むのを禁じ、研修の僧五十人を住まわせました。多くの名僧を出したが、大火などで荒れていたのを、豊臣・徳川両氏の保護を得てよみがえりました。江戸時代には寺領二千三十石をもち、高野山とその勢いは絶大でした。現在でも真言各宗の僧が集まり、鎮護国家と天皇の息災を願う「後七日御修法」が修されています。 寺全体が宝物といってもよいくらい寺宝が多くあります。中でも講堂などに安置されている平安初期の密教仏、五大明王像五体、五大菩薩坐像四体、梵天、帝釈天二体、四天王立像四体、兜跛毘沙門天立像と不動明王坐像などはすべて国宝です。絵画では、真言七祖像、両界曼茶羅、弘法大師行状絵詞などが有名です。

唐招提寺

(とうしょうだいじ)

奈良市五条町にある律宗の総本山。
聖武・孝謙天皇の勅願によって、唐の僧・鑑真が759年(天平宝字3)に創建しました。当時は大殿の前に戒壇が築かれ、天皇・上皇をはじめとして大勢の人が受戒したと伝えられます。 金堂は「天平の甍」といわれるとおり、奈良時代を代表する建築の一つです。本尊の毘廬舎那仏坐像、薬師如来立像、千手観音立像は傑作として名高く、開山堂に安置されている鑑真和上坐像は等身の乾漆像で、奈良時代の肖像彫刻の代表作とされます。東山魁夷作の屏風絵なども収蔵されています。

東大寺

(とうだいじ)

奈良市雑司町にある華厳宗の総本山。
別称、大華厳寺・城大寺・総国分寺・金光明四天王護国之寺などともよばれます。 もとは、真言・華厳・三論・法相・律・成実・倶舎・天台の八宗兼学の寺でした。741年(天平13)に大和国の国分寺となり、良弁の活動によって東大寺となりました。743年(天平15)に聖武天皇が大仏造立の詔を公布、行基らの努力によって749年(天平勝宝1)大仏鋳像が終わり、771年(宝亀2)に完成しました。その後多くの戦火をへて今日にいたっています。 毘廬遮那大仏像、本尊不空羂索観音像、日光・月光両菩薩像、四天王、金剛力士など多くのすぐれた彫刻・工芸・絵画が伝わっています。二月堂、法華堂(三月堂)、正倉院など、歴史的な建造物も多くあります。

西本願寺

(にしほんがんじ)

京都市下京区堀川花屋町にある浄土真宗本願寺派の本山。
通称「お西」といいます。 親鸞の末娘の覚信尼が、1272年(文永9)に親鸞の大谷の墳墓を改めて、吉水の北に遺骨を移し、仏閣を建てて御影像を安置したのに始まります。これが大谷本廟です。その後、本願寺の寺号が公称され、1591年(天正19)に豊臣秀吉の寺地寄進を受けたのが現在の西本願寺の起源で、十二世准如が造営にあたりました。 現在は境内の正面、東向きに阿弥陀堂と御影堂が並びます。両堂の西および西南に続く多くの建築物は、伏見城の遺構がほとんどで、桃山文化の華麗さを伝えます。境内の隅に聚楽第の遺構と伝える飛雲閣があり、庭園中に三層の姿を残す茶室建築の傑作です。寺宝には、親鸞聖人画像(鏡の御影)、三十六人家十七帖などがあります。

東本願寺

(ひがしほんがんじ)

京都市下京区鳥丸七条上常葉町にある真宗大谷派の本山。
通称「お東」といいます。 開基・開山の歴史は西本願寺と同じですが、1602年(慶長7)に徳川家康が、顕如の子教如(准如の兄)に現在の寺地を与えて創立しました。 たびたび火災にあい、現在の建物はほとんど明治期のものです。もっとも大きな建物は大師堂で、明治30年から15年かかって完成しました。別邸の渉成園は、枳殻邸ともいい、名園として知られています。

平間寺

(へいげんじ)

神奈川県川崎市川崎区大師町にある真言宗智山派の大本山。
通称「川崎大師」と呼ばれています。正しくは金剛山金乗院平間寺といいます。 高尾山薬王院・成田山新勝寺とともに、真言宗智山派の関東三山といわれます。1127年(大治2)に源義家の家臣平間兼豊・兼乗の父子が、海中から得たと伝えられる空海像を安置するために一寺を創建し、尊賢を請して開山にしたといわれています。このときに、兼乗が42歳の厄年にあたっていたので、本尊・弘法大師空海像は俗に「厄除大師」ともよばれています。平安末期に勅願所となりました。1651年(慶安4)に徳川家光より朱印地を与えられてからしだいに栄え、明和年間(1764〜1772)隆範が入寺して再興しました。 本尊・不動堂・観音堂・庫裏・山門などが並び、威容を誇ったが、昭和20年の戦火で全山が焼かれました。近年、大本堂が建ち、信徒会館なども復興しました。 毎年1月21日、5月21日、9月21日の護摩供養には、多くの参詣者が集まり、盛大をきわめています。初詣の人出が多いことでも有名です。

法隆寺

(ほうりゅうじ)

奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の総本山。
別名を斑鳩寺ともいいます。 607年(推古15)に用明天皇の遺命によって聖徳太子が創建したと伝えられます。金堂と塔が東西に並ぶ様式は、中国から伝わった四天王寺方式とは異なる独特のもので「法隆寺方式」とよばれます。 止利仏師作の釈迦三尊、薬師三尊、四天王像、百済観音、五重塔、夢殿など、貴重な文化財が多くあります。

本門寺

(ほんもんじ)

東京都大田区池上にある日蓮宗の大本山。
日蓮が入寂した寺で、正しくは長栄山大国院というが、通称は池上本門寺とよばれています。 鎌倉幕府の奉行・池上宗仲が創建し、日蓮の弟子・日郎が伽藍を修造しました。たびたびの戦火にあいましたが、そのつど、徳川氏の外護によって再建しました。昭和20年の戦火で堂宇の多くを失い、江戸初期の五重塔だけが焼失をまぬがれ、重要文化財に指定されています。祖師堂の日蓮上人像(重文)は、鎌倉期の肖像彫刻の傑作です。 毎年10月11日から13日まで行われる日蓮上人の入寂を記念する御会式は盛大です。

萬福寺

(まんぷくじ)

京都府宇治市にある黄檗宗の大本山。
江戸時代に中国から渡来した禅僧・隠元に帰依した徳川家綱が建立したもので、1669年(寛文9)ころ諸堂が完成しました。全山が明朝風の建物で、山門・天王殿・仏殿・法堂が一直線に並ぶ様式はみごとです。


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